≪枚方市、寝屋川市≫

住所 神社名 祭礼日 内容 備考
 ≪枚方市
 ■枚方地区(旧・茨田郡)
枚方上之町1−12 意賀美神社 10/15頃の日曜 布団太鼓4台
子供太鼓4台
岡新町、岡東町、岡本町、三矢町
(子供太鼓も同4町)
太鼓台廃絶 伊加賀、蔵谷、大垣内、泥町
枚方4ヶ村(岡新町・岡・三矢・泥町)の氏神(岡新町・岡は日吉神社、三矢・泥町は須賀神社)に各々宮入りしたが、日吉神社・須賀神社は共に意賀美神社に合祀されたので、枚方4ヶ村は意賀美神社に宮入りするようになった。
 往古の布団太鼓は「東海道 枚方宿と淀川」163ページには岡新町、岡、三矢、泥町、伊加賀、桜新地の6ヶ村が旧枚方宿を巡行したとあり、
 枚方市史 第5巻591ページには戦前は伊加賀、蔵谷、岡東、岡新町、岡本町、三矢、大垣内、泥町より布団太鼓が出たとある。
昭和34年の伊勢湾台風より自粛するが昭和43年に三矢の復活を嚆矢とし、50年の岡本町と復活が続いた。
布団太鼓の最古の記録は村内通行をめぐって岡村と岡新町が争った文化10年(1813)の記録である。
岡新町=安政3年(1858)9月制作。細工人は村内の大工、碇屋藤七、磯島屋儀三郎。
屋台の裏側に若中17人の発起人と村内の大工が記されている。

 先代は文化10年(1813)
にはすでにあり。

岡東町=詳細不詳。

岡本町
=昭和50年、復活。

三矢町
=泥町と合併。昭和43年、三矢青年会がまず復活する。
 ■さだ地区(旧・茨田郡)
南中振1−17−8 蹉ダ神社 10/15頃の日曜  神輿1基    
子供太鼓3台 北中振、南中振、出口
子供樽みこし14基
子供会が中心で南中振=枕太鼓、北中振=布団太鼓、出口=太鼓神輿。出る。
平成14年、菅公千百年大祭に合わして改修を行った。出口は毎年出口子供会が中心となり、巡行が盛大に行われていたが、南中振は修理が必要。また北中振は地区で保管する場所が無いので、蹉ダ小学校にそのまま預けているので、神社に返還してもらい南中振1丁目公民館下の倉庫に枕太鼓と合わせて保管することにした。
枕太鼓の改修費は51万2050円。布団太鼓は48万9300円であった。なお出口の太鼓神輿は後年造り替えることで合意している。
走谷1−17−2 加茂健豆美命神社 10/連休日曜(元・15)  神輿1基    
子供太鼓3台 太鼓わく
 ■津田地区(旧・交野郡)
津田元町1−10−1 春日神社 10/19 地車廃絶
昔は津田の各町に地車があったが、喧嘩が例年ありそれをやめるため地車を売って各町それぞれ美しい提灯を造ることに改められた。提灯箱に文久4年(1864)とあるのでその頃に改められたと思われる。
野村南町1−1 春日神社 10/19 地車廃絶 手水舎の屋根は地車だと思われる
春日元町2−18−1 春日神社 10/19(元・12) 地車1台 扉が空く
『枚方市民俗文化財調査報告 春日』1984年、31ページには「戦前までは、村の青年会がダンジリを曳いて回っている。通り道は特に定まっておらず、村のホンミチにあたる通りを行き来したり、隣村の津田村まで曳いていったこともあるという」とある。
 ■川越地区(旧・交野郡)
茄子作3−15−26 春日神社 10/13、14(毎年) 子供神輿3基
地車2台 茄子作、高田
戦後しばらくは地車が曳かれお互いの村を訪問したが、昭和30年代には飾付けのみとなる。
子供神輿=宵宮に子供神輿(手作りで低学年が曳く)を茄子作自治会・春日丘自治会・京阪ひろ野自治会と共同して巡行。
茄子作(なすづくり)⇒地車小屋は境内。
=交野型。文政元年(1818)制作。大工は不詳。彫師は大坂 安土町の美濃村権左門、〃藤七。昭和54年、20年ぶりに復活。
懸魚:「鳳凰」。
車板:上段は「牛若丸 鞍馬山の修業」、下段は「龍と虎」。
枡合:「獏と飛龍」。
脇障子:右は「蝦蟇仙人」、左は「鉄拐仙人」。
花台:「龍」。
見送り:「松に鷲」。
高田(こうだ)=交野型。明治期制作。大工は不詳。彫師は相野音五郎。
山之上4−15−36 山田神社 3/春分の日 春祭り 各家ではよもぎ団子や寿司などを作って祝った。
10/2土日(元・13) 子供神輿 氏地は山之上、田宮
布団太鼓2台 山之上、田宮
神楽
宵宮(14:00〜16:00)子供神輿神楽巡行。(19:00〜)神楽奉納。
■本宮(9:30〜)湯立神楽。(16:00〜)模擬店。
山之上=3枚屋根。赤。

田宮
=3枚屋根。赤。
 「田宮の歴史」平成20年、田宮史を考える会発行の165,166ページには『明治以降の氏神である山田神社の秋祭りは10月13日が宵宮、翌14日が本祭りとなっている。明治時代には、山之上の山田神社まで練り歩いていたというが、山之上の村域に入ると必ず山之上の青年団に邪魔されたため、大正時代頃には、山田神社には参らないようになった。山田神社の裏参道は「田宮のもの」で、鳥居も灯篭も田宮の寄進によるものと言われており、山田神社に渡御していた頃には、この裏参道から本殿前に進んでいたという。山田神社に合祀される以前の氏神であった牛頭天王社への渡御については、不明である。
 山田神社に行かなくなってからは、集落内を歩いたり、銀行等からもらえるご祝儀を目当てに枚方市駅付近まで担いで行ったこともあったが、人口の少ない集落であるため、青年団だけでは人手が足らず、老人は提灯持ちを受け持ち、中年以下は太鼓台を担ぐなど集落の男性は総出であった。
村の入り口に5つの御神燈を高く掲げ、各家も御神燈を掲げた。
 現在は、担ぐ人がいなくなったため、田宮実行組合の組合員によって宵宮の13日に太鼓台を組み立て公民館前に出して飾るだけであり、担いで練り歩くことはなくなった。』とある。
村野本町29−1 村野神社 10/14(毎年) 子供みこし 併設の村野保育所の園児が担ぐ
布団太鼓2台 村野、印田
地車2台 藤田、釈尊寺
現在、例祭で担がれるのは併設の村野保育所の園児が担ぐ子供神輿のみ。布団太鼓は飾付けのみで、昭和30年代はかつがれたが、宮司が赴任した昭和44年には既に飾付けのみと聞く。
村野=3枚屋根。赤青緑。

印田⇒旧称は犬田。印田会館に保管。
=3枚屋根。赤。戦前より出たが、青年団が6人まで減り昭和42年頃に解散してから40年余り休止したが、平成23年復活。
藤田(とうだ)=地車小屋は三叉路(東藤田町)にある。例祭日に扉が開くのみ。
幕式。大工は不詳。彫師は相野一門。百済王神社氏地より購入と云われている。

しかし1996年、枚方市教育委員会発行の「旧 川越村」の33ページには『明治15年生まれの古老が招堤から購入したと話していたという。現在はだんじり小屋に保管してあり、秋祭りには10月13日の午後に1軒から1名づつ出て組み立て飾りつけ、15日にしまう。14日に練り歩いたこともあるが、小屋から適当な距離を動かした程度である。』と書かれている。
平成27年の聞き取りでは今から10年〜15年前に以前の地車小屋(藤田町4あたりの浅田宅前の三叉路のところ。現在はガレージ)から移転のため曳行が最後で頭から入れた。
平成5年(1993)の見物は旧・地車小屋に搬入で小屋根が後ろで提灯も付けられている。
釈尊寺⇒地車小屋は村野神社遥拝所内(釈尊寺町1)にある。ちなみに町会館もある。ちなみに釈尊寺の横の細道を行ったところである。
=大阪型?。戦時中の金属供出で平成27年(2015)でも未だ付けていない。例祭日は地車小屋⇒遥拝所まで約3mほど動かす。

1996年、枚方市教育委員会発行の「旧 川越村」の29ページには『秋祭りには宵宮の午後1時に集合して、地車を出して組み立て、提灯を飾るなどの準備を行う。戦前までは青年団が行っていたが、戦中に青年団が自然消滅してからは1軒に1人づつが出て準備を行っている。だんじりは、遥拝所が出来たのと同時期頃(明治20年頃)に、青年団が中宮か御殿山の方から中古を購入してきたということである。』とある。
 ■氷室地区(旧・交野郡)
尊延寺5−9−11 厳島神社 10/2土日 地車1台 一枚屋根
一枚屋根型。大工は不詳。彫師は相野一門。昭和61年(1986)、約100年ぶりに曳行復活。
杉1−31−15 若宮神社 10/15 例祭
穂谷2−7−1 三之宮神社 10/15(毎年) 地車1台
穂谷=一枚屋根。制作年、大工 等は不詳。社殿内部にて保存。社殿内より解体しないと出ない状態
 ■菅原地区(旧・交野郡)
長尾宮前1−12−1 菅原神社 7/3土曜 夜店、カラオケ大会、盆踊り
10/17頃の日曜 地車廃絶? 戦後しばらくは神社境内に地車庫らしきものがあったと伝わる
子供みこし5基 東、西、中、北 など
「神社秋祭りと祭礼」に関する調査(昭和58年実施)=枚方市史第五巻593ページには子供みこし5台(町内巡回)とある。
子供みこしは昭和50年代より始まる。平成初期に地元大工により製作。子供会中心でリヤカーに乗せて神社出発し、神社に帰る。
長尾峠町28−1 菅原天満宮 10/24、25 だんじり?
藤阪天神町1 菅原神社 10/19前の日曜 子供神輿
往古より地車は無く、据え太鼓だった。昭和10年頃〜戦後しばらくは少年の角力大会が行われた。また戦後の一時期は青年団の村芝居をしたこともある。
平成4年、子供神輿2基購入。現在は13:00〜16:00、前に軽トラックの太鼓を先導に区内を巡行。
 ■山田地区(旧・交野郡)
甲斐田町1−21 甲鉾神社 10/15 神輿1基
湯立神楽
中宮西之町1−68 百済王神社 10/15頃の土曜
(雨天は日曜)
神輿
地車1台 中宮西之町
戦前は3台あったが、(中宮山戸町、中宮東之町)昭和24年に招堤に売却した。
中宮西之町=天保7年(1836)制作。大工は不詳。彫師は墨書きより小松源蔵、花岡良三、相野清七と思われる。平成初期に修復。
須山町秋祭りみこし巡幸=10月最終日曜開催。須山町会子供の会主催。昭和57年、樽神輿登場が始まり。
7時に役員と子供の代表2名が百済王神社で祈祷。その後町内を子供神輿が巡幸。
田口1−66−18 山田神社 10/14 例祭
『枚方市民俗文化財調査報告 田口』1985年、25ページには「神社の境内に提灯を吊るすが、宮司による神事に村の役員が出席する以外の特別な行事はない。各家庭では、仕事を休んで、餅を搗き、クルミモチ・サバズシなどのご馳走をつくる。」とある。
 2013年は10/13、14に行われ、13日は神賑(じょんがら三味線と二胡の演奏)。14日は例祭の後は湯立て神事を行った。
片鉾本町15−30 杉ヶ本神社 10/連休土日(元・15) 例祭
 ■牧野地区
  ⇒磯島、渚、坂、小倉、禁野、宇山、養父、上島、下島
※磯島は旧・摂津国島上郡。明治7年、交野郡へ移籍。他は旧・河内国交野郡
磯島元町5−7 八幡神社 10/15 例祭
渚本町12−55 御殿山神社 10/19(毎年) 太鼓台休止 飾付けのみ。老朽化激しい
子供みこし3基 御殿山町、渚元町、渚本町
神楽奉納、湯立神事
牧野阪2−21−15 片埜神社
(公式HPへ
10/14、15(毎年) 湯立神楽 神輿(大小)
神賑
12/13 お火焚祭 みかん・餅まき
例祭が週末の年は稚児行列がある。この時に神輿が出る。平年の時は飾付け。
小倉町1 粟倉神社 10/15頃の日曜 子供みこし 餅つき
禁野本町2−7−41 御狩野神社 10/15 例祭 旧・禁野村の鎮守。
 ■招提地区(旧・交野郡)
招堤南町2−28−1 日置天神社 10/中旬(元・17) 神輿
地車8台 中横町、九十分町、新屋敷町、宇山林町 、北向山町・東町、門口・南町、南向山町、日の出町( 西町・北所)
 文政2年(1819)の「引山壇尻 道具預け帳」があるのでこの頃には地車があったことが分かる。
明治35年に前の地車小屋を境内に建てる。それ以前は各町内にあり。
明治末期〜大正初期に3台無くなるが、戦後百済王神社より2台購入。
枚方市史第五巻592ページには『明治の初めから地区内の9町が1台ずつだんじりを繰り出すことで知られていた招堤日置天神社の秋祭りでも、昭和32年を最後に経費難などを理由にだんじりの巡行は中止されていたが、41年農協合併・区有地の売却に豊作と慶事が重なったため、9年ぶりに復活した(毎日新聞、昭和41年10月14日)。しかし日置天神社の場合は、それ以後だんじりがねり歩くわけではなく、例年は神社境内に飾り付けて据えられるだけである』とあり、
曳かれなくなり神社に奉納。平成18年に修復された1台を約40年ぶりに日曜9時より小学校まで曳いている
奉納された地車は境内にあり、左から中横町、九十分町、新屋敷町、宇山林町 、北向山町・東町、門口・南町、南向山町、日の出町( 西町・北所)の順に保管されている。
中横町=大阪型。明治期制作。大工は不詳。彫師は辻田友次郎か?。
九十分町=大阪型。明治期制作。大工は不詳。彫師は辻田友次郎か?。
新屋敷町=大阪型。大正期制作。大工は不詳。彫師は美濃村松雲。  
宇山林町=住吉型三枚板型式。明治期制作。大工は大佐。「大佐請取帳」には記載が無いので他所より購入と思われる。
平成21年(2009)、金剛組で修復。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「櫛名田姫」。
隣懸魚:「青龍」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「獅子」。
虹梁:正面は「雲」、左右は「獅子」。
 ≪小屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「鷲に兎」。
拝懸魚:「烏天狗」。
車板:「牛若丸鞍馬山修業の場」。
枡合:「獅子」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
脇障子:右は「平 維茂、紅葉狩り」、左は「戸隠の鬼女」。
縁葛:「太平記」。
幟台:「力士」。幟差し:「猿」。
三枚板:正面は「加藤清正朝鮮の役」、右は「木村又蔵勇力」、左は「坂井久蔵勇戦討死」。
泥幕:正面は「猩々」、左右後ろは「武者」。
北向山東町=住吉型三枚板型式。明治34年頃の「大佐請取帳」に北河内郡招提村東之町とある。
大工は大佐。銘板は「細工人 東成郡住吉村 大佐」とある。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「櫛名田姫」。隣懸魚:「青龍」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「獅子」。
虹梁:正面は「雲」、左右は「獅子」。
 ≪小屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「牛若丸鞍馬山修業の場」。
車板:「松に鷲」。
枡合:「獅子」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
脇障子:「茨木童子片腕奪還」。
縁葛:「源平合戦」。
幟台は無し。幟差し:「獅子」。
三枚板:正面は「楠木正成の出陣」、右は「楠木正行の雄姿」、左は「楠木正季の勇姿」。
泥幕:正面は「猩々」、左右後ろは「武者」。
脇障子は「紅葉狩り」。
門口・南町=堺型。明治10年代制作。大工は住吉「大源」。彫師は彫又。百済王神社氏地より購入。
 平成18年(2004)金剛組で修復。
南向山町=大阪型幕式。昭和22、3年頃に百済王神社氏地(中宮山戸町か中宮東之町)より購入。
 彫物は寄せ集め。
日之出町=北河内型。江戸期制作。大工は不詳。彫師は相野伊兵衛。
 四条畷市岡山より購入。
 【地車廃絶】
西町=地車廃絶。神社の手洗い舎の屋根に地車の大屋根が使われていた。
 ■樟葉地区(旧・交野郡)
樟葉丘2−19−1 交野天神社 10/17以前の日曜 子供用だんじり4台 町楠葉、南楠葉、町田、中之芝
昭和30年頃までは簡易な地車を曳いていた。その後、途切れるが昭和54年より手作り地車を曳くようになる。
船橋本町1−707 二ノ宮神社 10/15 神輿廃絶   
太鼓1台   
神輿=氏子3ヶ村(船橋、養父、宇山)が常時喧嘩するので、各村の神輿を本殿裏の右の下に地中深く納めて争いことの無いようにしたと云われている。
 【枚方まつり】(公式HPへ
8/最終土日開催。枚方市駅の周辺が主会場と。また会場ごとにテーマを決め、キッズスペース、大人もゆっくりとくつろげる飲食エリア、イベント会場、地域の特色発信ブースといった会場づくりをしている。布団太鼓の巡行もある。主催は枚方フェスティバル協議会。昭和51年より始まる。

 ≪寝屋川市≫
 ■九個荘地区(旧・茨田郡)
大利町23−1 大利神社 10/17頃の日曜 神輿 拝殿に保管
太鼓廃絶 前後5人で担いだ
地車廃絶 鳥居がくぐれないほど大きかった
太鼓・太鼓=戦後しばらくして焼失
境内にテント地でカバーの4輪あり。これは廃トラックベースの町内地車か?
2014年の渡御は榊を先頭に子供中心で太鼓を乗せた軽トラック改造の乗物、子供神輿数基、宮司、宮神輿を乗せた軽トラック改造の乗物が続いた。
高柳3−19−25 天満宮 10/18前の日曜 町内地車1台
町内地車=境内に地車庫あり。平成14年(2003)、菅原道真公1100年大祭記念として創建。
 往古は青年団が太鼓を担いで廻ったが廃れた。
 その後、昭和60年頃よりトラックを飾り付けて巡行。
上神田2−2−2 神田天満宮 10/18を越えない土日 地車1台 氏地は上神田、中神田(枝郷の出屋敷)、下神田
上神田=昭和62年、和泉市山荘町(第二町会中心)新調。大工は岸和田の池内工務店(池内福次郎)。彫物は同工務店が改修し取り外した古い彫物を再利用。
山荘町第一〜第三町会の各子供会が参加し、地車実行委員会を作り曳行していた。
山荘町は平成4年までは曳行。
その後購入なので、平成5年以降に和泉市山荘町より購入。

 私が子供会の役員時代本人より聞いた話だが、
他町の子供会役員で仕事柄山荘か上神田担当で地車購入の話を聞きこの地車を紹介したと言われていた。
下神田=地車廃絶。宮に小屋あった。明治の話?
 また枕太鼓は戦後すぐ出来たが、数年で廃れる。
仁和寺本町4−11−29 氏神社 10/18頃の日曜 子供町内地車1台
花飾りのだんじりのような物らしい。昭和5、60年代から始まる。
池田中町31−13 菅原神社 10/17 神輿 拝殿に安置
旧名池田下、河村、中村の3ヶ村の氏神。
昭和60年発行の『ふるさとの庶民の歴史』85ページに「三ヶ村、18日となれば、本祭で朝から太鼓は一段と賑やかになり、太鼓を二本の棒に括り、担ぎやすくしたものを村々で作り、我が村こそ一番乗りをせんものと先を争って神社に乗り込んだそうです。先に境内に着いた村は、その年、豊年と言われました。朝からは神社の世話人が集まり神主に従って御神輿が御旅所まで出られたそうです。(中略)以前は国道1号線が淀川沿いに通っておりましたが、只今は神社前を通る様になり交通が激しくなり、この様なことは何時とはなしに無くなりました」とある。
 ■友呂岐地区(旧・茨田郡)
木屋町10−25 鞆呂岐神社 10/16 神事のみ
子供みこし、ねりこみ廃絶
 寝屋川市史によると、秋祭りは一つは『ねりこみ』であった。六人の男がそれぞれ立派な飾りのついた大提灯を長い棒の先につけて一本ずつ持ち、伊勢音頭の『やーとこせ』を唄いながら、お宮から南へ一直線に馬場前橋まで往復した。この大提灯は、よほどの力持ちでないと重くて持つことができないので、力自慢のものが選ばれた。もちろん祭礼のこととて酒を飲んでいるので、ときに倒してしまうことがあり、修理費用が大変だったようである。その二は、にわか・おどり・まんざい・獅子舞など素人芸の催しである。独特の村言葉で、酒の勢いも加わり、自由な表現で行ったので、随分人気があった。獅子舞は特に技術が必要なので、前もってどこかの広い納屋を借り、毎晩、箕でもって獅子舞の代わりにして稽古したそうである。」とある。
昭和40年頃より40年代後半もしくは50年代前半まで、手作り子供みこしがあり最盛期は10基ほど出たが10年ほどで廃れた。
香里園本通町19−13 友呂岐神社  10/15、16 例祭 氏地は郡、三井、田井
1/成人の日 お弓式
神輿=昭和60年発行の『ふるさとの庶民の歴史』83ページに「15日の宵宮は、10年程前までは青年団の方が「おみこし」を「みこしだワッショイ、ワッショイ」と威勢よくかつぎ各家に廻って来られ、お花を包み、お供えをしました」とある。
お弓式=市指定文化財。旧・三井神社跡で開催。昔は村役や有力者の子弟が紋付裃姿で弓を引いたが、現在は地元で選ばれた20歳の青年2人が弓を引く。弓は交互に2本ずつ3回、計12本の矢を的に向けて射る。12本の矢は1年を意味し、矢の当り具合で天候と豊凶を占う。
田井=明治43年に鎮守の二本松神社は鞆呂岐神社に合祀されたが、合祀以前は10/15の宵宮はにわか、獅子舞などが行われ、太鼓のねりこみもあった。神社は村の集会場となる。
獅子の道具は昭和31年当時は残っていた。
八坂町11−13 八坂神社 10/16 子供樽みこし 氏地は平池村
石津中町41 若宮八幡神社  10月 例祭
太間町10 太間天満宮
 ■豊野地区(旧・讃良郡)
国松町1416 春日神社 10/2土日(隔年) 地車1台 堺型
国松⇒明治27年9月、地車小屋改築。神社境内。
寝屋川市史第8巻264ページには「明治28年(1895)に守口の金田より100円支払って中古のものを購入」とある。
ちなみに昭和31年発行の寝屋川市誌には「明治25年、85円で地車新調」とあるが。
堺型。江戸末期制作。大工は不詳。彫師は彫又一門。明治25年10月購入と伝わる。
三枚板:【七福神】「福禄寿と寿老人」「大黒天と布袋」「恵比須、毘沙門天、弁財天」
八幡台11 八幡神社 10/中旬(元・17)
(三社の秋祭り)
神輿2基
太秦桜が丘26 細屋神社 太鼓台廃絶
秦町8 加茂神社 獅子舞廃絶
太秦中町4−13 熱田神社 10/連休(元・17) ねりこみ 昭和43年(1968)復活
地車廃絶
太秦=地車は組立式で傷みが激しくなり昭和初期に破損した部材は売却された。幕は立派なものだったと言われる。
高宮2丁目11−6 高宮神社 10/連休土日 地車2台(北河内型) 旧・郷社
高宮2丁目15−1 大杜御祖神社 10/連休土日
高宮神社は元河内国讃良郡18ヶ村の総社。大杜御祖神社は高宮村の氏神。
高宮⇒地車小屋は神社東広場。
=明治20年頃制作。大工は交野・星田の人。彫師は服部清七。
大きな地車なので支障が多く、数年で四条畷の砂に売却するもだんじりの無い秋祭りは寂しいと3年後に買い戻す。

小路
⇒地車小屋は小路公民館西側。
=大東市深野新田より購入。彫師は彫清。
 ■寝屋川地区(旧・讃良郡)
木田町6−10 住吉神社 10/16 子供神輿2基 平成になり始まる
地車廃絶 明治34年頃に購入するが
宮相撲 昭和初期まで続いた
元の社地は木田元宮1丁目に鎮座されていたが、低地でたびたび浸水被害に遭うため、慶長年間に高所である現在地に遷座した。
遷座前は宵宮に今の地蔵橋(福田寺の南隣り)上木田の浜に巡航され、本宮に上木田の浜から元の社地へ船渡御し還幸した。
地車=大東市深野北は明治34年頃に寝屋川市木田から購入と云われている。
堀溝2−12−20 鶯関神社 10/中旬(元・16) 枕太鼓1台
地車廃絶 詳細は不詳だが、かつてあったと聞く
河北西町4−8 大神社  10/15、16 地車廃絶
獅子舞廃絶
地車=昭和25年(1950)のジェーン台風で地車蔵が大破して廃絶
萱島本町21−5 萱島神社 10/17 例祭
 ■水本地区(旧・交野郡)
寝屋南二丁目1525 寝屋神社 10/2土日 枕太鼓1台 日曜午前に組立、子供による巡行。午後解体
地車1台 交野型
寝屋⇒地車小屋は神社内。
=天保2年(1831)9月の作?。これは提灯の入れ箱の墨書きによる。大工は不詳。彫師は美濃村権兵衛。
打上元町19−1 打上神社 10/2土日 地車2台(北河内型) 上、下  
子供地車
打上上⇒地車小屋は参道沿い
=北河内型。慶応4年=明治元年(1868)頃制作。
四条畷の木間村の大工の作。彫刻は小松一門他彫清の手が入っていると思われる。小屋根車板には「小松福太郎」の銘あり。
 平成27年12月20日、修復入魂式。これは文化庁認知 地域活性化事業。大工は隆匠。洗い、締め直し などの復元修復。
彫刻繕いは木彫山本。

打上下(出屋敷)=地車小屋は参道沿い。
往古は明治22年制作。43年に泉大津市北曽根に売却。現・兵庫県尼崎市御園町へ。
国守町1416 国守神社 10/2土日 地車1台 北河内型
国守⇒地車小屋は国守神社西側。元は2台。
=北河内型。江戸末期=明治初期の作。大工は不詳。彫師は西岡又兵衛。
平成27年(2015)3月4日(水)搬入。文化庁認定 地域活性化事業で河合工務店が修復。
本体の洗い・締め直し・錺金物の復元新調。獅噛み二面・飾目1面・脇障子の彫刻は井波の野原湛水により復元新調。
 門真市横地は先代を寝屋川市の国守に売却したと聞く。
この地車かどうかは不明だが、文久2年(1862)の「地車幕求覚帳」(横地村若中文書)によりこの年に下村より32両2歩で購入したとある。

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