兵 庫 県【阪神】     

     ≪尼崎市≫

尼崎市北出屋敷 尼崎市南出屋敷

住所  神社名 祭礼日 内容 備考
 ≪尼崎市≫
  ■尼崎地区(旧・川辺郡尼崎町)
西本町6−246 貴布禰神社 8/1、2(毎年) 神輿 あり
太鼓1台 辰巳太鼓
地車8台 中在家、北出、西櫻木、東櫻木、新三和、西町、御園町、南出
不定期 舟だんじり 中在家
 【8月1日】パレード・宮入り
17時       阪神尼崎駅南口 亀田ビル前集合
17時30分   パレード出発
18時頃     中央4番街通過
18時45分   三和本通商店街南詰「中消防署三和分署」前通過
19時頃     新三和サンロード西詰通過
19時30分頃 辰巳太鼓、地車の宮入り
 ※時間は先頭通過予定時間。パレード最後尾通過までの所要時間はおよそ40〜50分。
 【8月2日】山合わせ
18時30分   取り組みは平成19年(2007)は16回あった。   
 【辰巳太鼓】
枕太鼓は古来より辰巳町(現・東本町1丁目あたり)が担当。かつて辰巳町は8町(東浜、西浜、東渚、西渚、東大道、西大道、北浜、宮本)が毎年交替して太鼓の引受町となっていたが、現在国道43号線が出来氏子が立ち退き氏子軒数が減ったので辰巳町全体で一本化している。
文政年間には地車19台、船だんじりも9台あったと記されている。
中在家(中在家地車保存会)=大阪型。江戸末期の作。元の“西3丁目”。
かつては五丁町で9台の地車を保有しており、法被には1丁目から5丁目までの紋を散らし、紅提灯には9台の名を残している。
 ≪大屋根廻り≫
飾目:「青龍」。
拝懸魚:「朱雀」。隣懸魚は無し。
車板:「?」。
枡合:「貝づくし」。 
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「桃に猿」。隣懸魚は無し。
車板:「親子唐獅子」。
枡合:「貝づくし」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
土呂幕:「青海波に兎」。
見送りは火燈窓で「龍宮城」。

かつて5丁町で9台を保有していたが、(東一丁目、〃三丁目、〃四丁目、西一丁目、〃三丁目、〃四丁目、西上一、濱二丁目、〃五丁目)現在は1台のみ。また船だんじりを各丁が保有していたが、ほとんどが昭和20年頃になくなる。
◎東一丁目・西一丁目・西上一=昭和19、20年頃に吉田鉄工所に売却。解体され彫物・部材を選び1台にする。その後売却され、現・道意神社地車。
◎東三丁目=昭和42年2/11に子供の火遊びで焼失。
◎西四丁目昭和42年2/11に子供の火遊びで焼失。
◎東四丁目
昭和23年に北出に売却。
◎濱二丁目=昭和9年の室戸台風で流失。唯一残った三枚板は小嶋町に売却。
◎濱五丁目=昭和18〜20年頃に他地方に売却。この地車は6つコマの巨大地車だった。
◎子供地車=昭和30年代後半に腐敗。
北出(北出屋敷地車保存会)=大阪型。昭和23年に中在家東4丁目より購入。天保初期の作か?。
地元の船大工の作と伝えられる。彫師は相野伊兵衛。
平成21年7月17日、修復入魂式。葛熏яgが修復。
 ≪大屋根廻り≫
飾目:「唐獅子」。
拝懸魚:「朱雀」。
車板:「素盞鳴尊 八岐大蛇退治」。
枡合:「唐子千人遊び」。 
 ≪小屋根廻り≫
飾目:「玄武」。
拝懸魚:「朱雀」。
車板:「?」。枡合:「唐子千人遊び」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
見送り:正面は「西王母武帝に桃を献ず」、右は「鉄拐仙人」、左は「蝦蟇仙人」。
土呂幕:狐格子。

 先代(二代目)は明治28年頃に東淀川区三津屋方面より購入。昭和21年11/3の新憲法公布の祭典に参加の帰りの18時50分頃に阪神電車に衝突し、死亡者1名、負傷者12名を出し、横転した地車は今度は下り電車にあたり壊れた。
 子供地車は昭和9年に福井家が作った物を昭和33年に20万円で譲ってもらう。よく新三和に貸していた。大庄西連協に売却。
西櫻木(西櫻木地車保存会)=大阪型。明治10年制作。生野区岡村(現・東桃谷勝山北地区)新調。【郷土誌生野による】大工は永田熊次郎。彫師は二代目彫清他辻田一門。
昭和4年、東大阪市岸田堂購入。新調に伴い売りに出され平成3年、東大阪市岸田堂より購入し尼崎タイプに改造。
平成26年(2014)7月27日、入魂式。大下工務店により片背棒の交換。
 ≪大屋根廻り≫
飾目:「唐獅子」。
拝懸魚・隣懸魚:「朱雀」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「青龍」。 
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚・隣懸魚は「飛龍」。
車板:「夫婦麒麟」。枡合:「牡丹に夫婦唐獅子」。
 ≪腰廻り≫
縁葛:「曽我物語」。勾欄:「唐子二十四孝」。
脇障子:右は「加藤清正虎退治」、左は「後藤又兵衛虎退治」。
角障子:「梶原景時」。
土呂幕:「狐格子」。
 ≪見送り廻り≫
見送り:【源平合戦】正面は「義経の勇姿」、右が「平影清綴引き」、左が「敦盛呼び戻す熊谷次郎直実」。

昭和23年頃に北風氏が手作り地車を制作したのが始まり。3台作るが、その後地車借りるようになる。
 先代は昭和48年頃に大阪市西淀川区大野町より購入。元・築地若中の地車。なんと2人で押して帰ったと云われている。
平成5年4/18に神戸市東灘区中御影(柳)に売却。現・東京都府中市へ。
 さて現・地車を購入したものの、尼崎型への改造が間に合わず1年だけ小嶋の地車を借りた。
東櫻木(東櫻木地車保存会)=北河内型。嘉永期(1848〜54年)の作。大工不詳。彫師は小松源蔵。
昭和46年(1971)に吹田市宮ノ前町より購入。購入時は幕式だったが、土呂幕部分の彫物を動かし見送り三枚板とした。
 ≪大屋根廻り≫
拝懸魚:「朱雀」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「牡丹に唐獅子」。 
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「鷲に猿」。
車板:「夫婦唐獅子」。
枡合:「牡丹に唐獅子」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
見送り:「源平合戦」。元・土呂幕彫物を三枚板に使用。
 
 昭和23年頃に子供地車譲り受け曳きだしたが続かず。
 昭和41年に道意神社の地車借り初め4年間。45年に丸嶋町の地車借りる。そして自前の地車へ。
また地内の桜木西町は昭和30年代後半に老朽化のため壊す。
新三和(新三和青年団保存会)=住吉型三枚板型式。平成24年(2012)4月29日、購入入魂式。
新三和青年団保存会としては初代。
明治23年、堺市石橋新調。大工は「大佐」11代目。川崎仙之助。彫師は実弟下川安次郎と彫又一門。
銘板は「細工人 住吉大佐」とあり。
大佐の「地車請取帳」には、「大鳥郡草部村?田大字石橋村 様」とある。
昭和58年に池内工務店で修復。その時に屋根が大きくなり彫物新調。彫師は木下彫刻工芸。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「櫛名田姫」。隣懸魚:「青龍」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「牡丹に唐獅子、谷越獅子」。
虹梁:「牡丹に唐獅子、珠取獅子」。 
 ≪小屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「鷲に猿」。隣懸魚:「猿に松」。
車板:「鷲に虎」。
枡合:右は「谷越え獅子」、左は「牡丹に唐獅子」。
 ≪腰廻り≫
脇障子:【列仙伝】右は「通玄」、左は「蝦蟇仙人」。
隅障子:右は「秀吉本陣佐久間の乱入」、左は「羽柴秀吉」。
幟台:「力士」。幟差し:「猿」。
土呂幕:【源平合戦】正面は「猩々」、右は「平影清錣引き」、左は「義経八艘飛び」、後ろは「那須与一扇の的」。
 ≪見送り廻り≫
見送り(三枚板):正面は「素盞鳴尊大蛇退治」、右は「木村又蔵勇力(姉川の戦い)」、左は「坂井久蔵勇戦討死(姉川の戦い)」。

 この地車購入以前は2年間、本三の地車を借りていた。
新三和(新三和地車保存会)
⇒この地車は個人より借りたと記しているのもあるが、
あえて書かせて頂く。新三和在住のMさんは地車が好きで、堺で曳かれていない野々宮神社(深井中町奉納地車。現・長野県諏訪へ)奉納地車や多治速比売神社(和田奉納地車)や伊丹市大手町地車(現在は本一の彫物の一部)を貰ってきて尼崎の地車の台数増加に貢献した。私にも何度か曳かれていない地車の問い合わせの電話があったし、M氏の飲食店で何度も昼食を頂いた。
そして地元の新三和は岸和田の吉為工務店にお願いして元・堺市豊田の地車を頂いた。
この地車はM氏の努力で新三和に嫁入りされ、神社内の新三和と書かれた倉庫に保管された。
その後、何があったか知らないが、行き違いがありこの地車は明石の方の倉庫にあるという。
現在の所有は別にして新三和で20年近く曳かれたので、あえて新三和として書こうと思う。

=堺型。明治中期作。大工は堺の地車大工。彫師は辻田友次郎、服部清七。
昭和62年堺市豊田より購入し曳行は翌63年。
経路は野砲第四連隊(3年使用)⇒近くの町に払下げ⇒泉南の某町⇒豊田(大正10年に購入)。
 ≪大屋根廻り≫
飾目:前が「唐獅子」、後ろは「飛龍」。
拝懸魚:「飛龍」。隣懸魚:「青龍」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「青海波に夫婦玄武」。 
 ≪小屋根廻り≫
飾目:「唐獅子」。
拝懸魚:「鷲」。隣懸魚は「鶴」。
車板:「親子唐獅子」。
枡合:右は「竹に親子虎」、左は「竹に夫婦虎」。
 ≪腰廻り≫
出人形:右は「海軍大将西郷従道?」、左は「陸軍大将川村純義?」。
脇障子:右は「誉田別命を抱く武内宿禰」、左は「神功皇后 応神天皇平産す」。
土呂幕:正面は「巴御前剛力」、左右が「牡丹に唐獅子」、背面は「敦盛呼び戻す熊谷次郎直実」。
 ≪見送り廻り≫
見送り:【難波戦記】正面は「薄田隼人の勇戦」、右は「木村長門守勇戦」、左は「真田幸村勇戦」。
脇障子:【神功皇后、応神天皇平産す】右は「応神天皇を抱く武内宿禰」、左は「神功皇后」。

 昭和25、6年に手作り地車で初登場。この地車は昭和58年に腐ってきたので壊す。昭和42年より北出の子供地車を借りた。
西町(西町地車保存会)=堺型。明治期作。平成12年(2000)2月13日搬入。7月30日、購入入魂式。高石市富木より購入し改造。元は堺市海船の浜(現・七道)。
大工は堺の大工か。彫師は彫又一門。
平成25年(2013)5月26日、修復入魂式。大下工務店により、勾欄・妻台の新調。
 ≪大屋根廻り≫
飾目:「青龍」。
拝懸魚:「朱雀」。隣懸魚は無し。
車板:「青龍」。
枡合:「夫婦唐獅子」。
虹梁:「青龍」。
天蓋:「飛龍」。
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「朱雀」。隣懸魚は無し。
車板:「雲海?」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
出人形:【賤ヶ岳の合戦】右は「佐久間玄蕃」、左は「豊臣秀吉」。
土呂幕・勾欄は【賤ヶ岳の合戦】より七本槍の活躍。
見送り:【神話伝説】正面は「天の岩戸」、右は「天日槍悪鳥退治」、左は「真素盞鳴尊 八岐大蛇退治」。

 往古は昭和30〜33年に福井家のミニ地車を借りて曳いた。
 先代は平成3年に「梶内だんじり店」より購入。曳き納めは平成12年1月16日で南出屋敷に譲渡。
御園町(御園町地車保存会)堺型。平成6年(1994)10/23、泉大津市北曽根より購入。
明治22年寝屋川市打上が新調。同43年に北曽根に売却。大工は「大佐」12代目川崎宗吉。彫師は八代目小松源助

ただし大佐の「地車請取帳」には載っていないので、大佐の作かは疑わしい。

 かつては昭和34、5年に築地の地車借りたり、道意神社の地車を借りたりした。
 その後、平成4年、貴布禰太鼓地車保存会に加入し、現・地車購入までの3年間は築地・本一の地車を借りて曳行していた。
南出(南出屋敷地車保存会)=堺型。明治期の作。大工は不詳。彫師は彫又一門。平成12年(2000)5月5日、購入入魂式。西町より購入し復活。
経路は大阪府堺市菱木稲葉⇒〃八田寺⇒〃深井畑山⇒「梶内だんじり店」⇒兵庫県尼崎市北出西町⇒〃 南出屋敷。

 往古は大正末期か昭和初期には地車があったが、昭和20年の枕崎台風で流失。
それからは昭和32年頃まで小嶋などから地車を借りていた。
汐町=昭和55、6年に福井家のミニ地車を借りて曳いた。

市庭(いちは)町(東本町3、4丁目の国道43号線の北側。大覚町ともいう)=明治20年頃に築地の仲の町に売却。現存せず。

別所町(東本町3、4丁目の国道43号線の南側)=明治期に町内でもめごとがあり、松島神社の近くで焼きはらわれた。また子供地車もあった。

風呂辻町
(東本町の一部)⇒辰巳町と市庭町・別所町の間に位置し本町筋が本町通商店街として各種小売店・飲食店・銀行・芝居小屋・映画館などが軒をつらね栄えたが、昭和20年(1945)商店街の南側が家屋疎開の対象となり商店街は消滅し、後に跡地に国道43号線が建設。また昭和33年(1958)の土地区画整理により東本町の一部となった。
=文政元年にはあり、明治40年頃まであったその後不明。
築地南浜−19 初島大神宮公式HPへ 9/連休日祝(元・6) 神輿 大小
地車7台 本一、本三、本五、大官町、南浜、丸嶋、小嶋
神輿=寛延4年(1751)制作。作者は不詳。水無瀬三位、町尻三位、山井大蔵卿、櫻井刑部権大輔、七条二郎丸の共同で寄進。平成14年、当地出身で長野県在住の篤志により修復並びに収納庫新築寄進。祭礼時は収納庫で展示。
子供神輿=昭和30年に篤志家3名により寄進。氏子の子供により巡幸。
本一⇒築地1丁目本町通り周辺。
=平成30年(2018)9月16日(土)新調入魂式。
=大工は大下工務店(大下孝治)。彫師は辰美工芸(中村行宏)。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
桁隠し:「鳳凰」。
車板:「宝珠を掴む龍」。
枡合:左右は「牡丹に獅子」、中は「雲に鶴」。
持送り:「牡丹」。
 ≪小屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。 
拝懸魚&桁隠し:「応龍」。
車板&枡合:「牡丹に獅子」。

脇障子:「麒麟」。
三枚板:正面は「初代尼崎城主 戸田氏鉄 関ヶ原の戦い」、右は「絵本太閤記 荒木村重 餅を食らう」、左は「絵本太閤記 秀吉 茶坊主に化け 危機を逃れる」。。
泥幕:「格子」。
台木:「牡丹に獅子」。

 明治維新までは太鼓町。大正初期から子供地車か?。昭和12年頃は東1丁目で子供地車が曳かれたという記録あり。
昭和43年より祭礼参加。昭和43年・45年は道意の地車を借りていた。

昭和44年は中在家の地車を借りていた。
昭和47年は東桜木の地車を借りていた。
昭和48年・49年は西桜木の地車を借りていた。
昭和50年〜平成元年は北出の地車を借りていた。
 先代は堺型。明治45年制作?。平成元年(1989)堺市の多治速比売神社(和田奉納地車)より購入。
当初は伊丹市大手町の地車を購入し曳こうとしていたが、老朽化がひどいため中止したため、この地車の彫物も合わせ改造し、翌2年より曳行。
平成20年8月17日、修復入魂式。寺井組による。
昇魂式は平成29年(2017)9月9日。現在は三田市某所に保管らしい?。
本三(築地本町3丁目HPへ⇒築地3丁目本町通り周辺。
=大阪型。大工不詳。彫師は服部清七。
平成19年(2007)11月11日、堺市檜尾より搬入。平成20年(2008)5月4日、購入入魂式。入魂式に先立ち寺井組が修復。
江戸末期に泉大津市北曽根新調。大正13年春に西之側(現・檜尾)が和泉市上代より375円で購入。その時の修復費が205円75銭。昭和24,5年頃より休止していたが、昭和58年に復活。檜尾は平成19年(2007)10月14日、昇魂式。

 昭和46年より祭礼参加。昭和46年〜昭和61年まで中在家の地車を借りていた。
初代は堺型。大工は堺の大工。彫師は西岡又兵衛。昭和62年(1987)に堺市深井清水町の野々宮神社に奉納されていた元・深井中町地車を60万円で払下げてもらう。
この地車は大正期に住吉区千躰の地車を有志で購入。昭和24、5年頃まで曳行するが、それより休止となり、遂には昭和40年代に野々宮神社に奉納されたものである。
現・地車搬入時に大下工務店に一時預かってもらい、11月23日出発で翌24日着で長野県諏訪市Kさんへ。運賃込みで100万円で売却された。一部の人が70万円と言う人がいるが運賃込みと言うことを知らない人である。
kさんは自宅敷地に新たに倉庫を建造し保管。2、3回はイベントで出されたがその後は自宅で眠っている。
本五⇒築地5丁目本町通り周辺。
=堺型。平成6年堺市菱木山田より購入。購入後改造したが、翌年は阪神大震災があったため、築地での曳行は平成8年より。
大工は金田村(現・堺市金岡町)の河村新吾。彫師は彫又。経路はこの地車は大正初期に住吉の料亭に置かれていたもので代が替わり、売却を希望している事を出入りの山田の植木屋の「植文」が聞きつけ村に知らしたものである。
柱巻き:「源為朝と家来の鬼」。
三枚板見送り:「飛龍退治」。左は「天竺の班足王」。
脇障子は平成17年(2007)新調。

 初代は昭和25年、地元の船大工が地車制作。この彫物は戦争末期に中在家町(東一、上一、下一)の3台が吉田鉄工所に売却さればらして置かれていたものを再利用。昭和38年に野ざらしで保管のため腐り出した。
昭和39年・41年は中在家の地車を借りていた。
昭和42年〜49年は東桜木町の地車を借りていた。また昭和30年代〜50年代は幸町(4丁目と5丁目の間の北辻)と合同運行。

昭和50年〜52年は西桜木町の地車を借りていた。
昭和53年〜平成6年は東桜木町の地車を借りていた。
平成7年は大庄西(現・中之町)の地車を借りていた。
大官町(築地南浜1丁目)⇒築地2丁目松島橋公園周辺。
=堺型。平成5年に堺市津久野の宮山組より購入。江戸末期制作と思われる。大工は堺の木村一門か堺の地車大工?。彫師は服部清七か?。
舟大工の西山師により改修され、平成6年6月5日、入魂式を行う。

 往古は文久3年(1863)8月の正遷宮に三番で曳き出された記録あり。
先々代は大正10年頃に御影に売却?
往古の地車か?昭和23年頃まで曳かれ30年頃に焼却処分。
 昭和24年頃〜29年頃は中之町・高木家所有の地車を中之町と合同曳行。その後途絶える。

 昭和54年〜平成2年は西桜木の地車を借りていた。
平成3年・4年は北出の地車を借りていた。
 先代?平成4年頃に八尾市より小ぶりの地車を購入するも、諸事情で一度も曳かれることなく、芦屋市精道[津知・浜芦屋]に売却。
南浜⇒築地3・4・5丁目南部周辺。
=堺型。平成9年10月19日、堺市上(上の曳き納めも10/19)より購入。この地車は「大佐」11代目下川安次郎が中古の2台を1台にし、不足の彫物を新しく細工した地車で、上では大正4年に伯太の業者より購入という。
昭和57年、大改修。大佐作の銘板は以前はあったが、今は無い。彫師は彫又一門。
平成10年、大賀師により尼崎型に改修。
 
≪大屋根廻り≫
拝懸魚:「朱雀」。隣懸魚:「松に鶴」。
車板:「宝珠をつかむ青龍」。
枡合:「青龍」。虹梁:「牡丹」。
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「猿つかむ鷲」。隣懸魚:「松に鶴」。
車板:「素盞鳴尊 八岐大蛇退治」。
枡合:「牡丹に唐獅子」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
柱巻き:「阿吽の龍」。縁葛:「花鳥風月」。
土呂幕:【源平盛衰記】正面は「鬼若丸の鯉退治」、右は「敦盛呼び戻す熊谷次郎直実」、左は「平景清錣引き」。
三枚板:【太閤記】正面は「今川義元の最期」、右は「豊臣秀吉の雄姿」、左は「加藤清正の雄姿」。


平成5・6年は西町の地車を借りていた。
平成7年は北出の地車を借りていた。
平成8・9年は西町の地車を借りていた。
丸嶋⇒築地2丁目 神社南側周辺。
=堺型。昭和57年(1982)堺市平井新調。大工は池内工務店(池内福治郎)。彫師は木下頼定。
平井は平成8年11月3日、曳き納め。翌9年購入。
平成30年3月4日、修復入魂式。文化庁認定 地域活性化事業により大下工務店で修復。灰汁洗い・彫刻繕い・肩脊棒取替え・獅噛み・拝懸魚・台木の復元修復。
彫刻繕いは木下彫刻工芸。獅噛み・拝懸魚・台木は辰美工芸。
 以前は平成25年(2013)6月9日、修復入魂式。(株)フ
ールドによる。
 【主な彫物】柱巻きは「夫婦龍」。
三枚板:正面は「鬼若丸の大鯉退治」、右は「美保谷四郎」、左は「平景清の錣曳き」。
土呂幕:「源平合戦」。
 往古は文久3年(1863)8月の正遷宮に四番で曳き出された記録あり。また太鼓に文化10年(1813)の墨書きあり。

 初代は大正6年頃、これは老朽化のため壊れる。台風の影響で格納庫ごと丸嶋浜に流され、その後引き上げられ、初嶋大神宮の境内に保管されたが、海水に浸かったことの影響で次第に傷みが激しくなり遂に使用不可となる。
 先代は大正8年頃に宝塚市小浜より100円で購入か?。福井師により改修。費用は200円。
平成8年12月8日、曳納めして神戸市灘区新在家に譲渡。この地車は新在家で2年曳かれた。
小嶋⇒東本町4丁目南部付近。
=大阪型。江戸末期の作。平成24年(2012)8月26日、修復入魂式。大工は大下工務店。式典会場は松島橋公園。
大工は不詳。彫師は相野一門。文久年間の記録にある小嶋西浜町の地車を受け継ぐ。元々は幕式で、背丈も現在より2尺5寸高かったと云われている。
見送り:「富士の巻狩り」。


小嶋本町は中地車で昭和10年頃制作。戦時中に焼却。
小嶋裏町に子供地車。昭和45年頃に焼却。
 【地車廃絶】
本四
(築地本町4丁目)=昭和40年のみ東桜木の地車借りて曳いた。これはずっと借りていた本五が死亡事故で自粛したため。

仲の町(築地中通1丁目)=明治20年頃に市庭町より購入。現存せず。

桃木町(築地中通2丁目)=廃絶。

栄町(築地中通3丁目)=大正9年頃に東灘区青木より購入するが、するが昭和20年頃に指物屋に売却。

末広町(築地中通6丁目)=大正期〜昭和10年頃まであった。

西先場町(築地北浜5丁目)=昭和30年頃に東富松町に8万円で売却。
大物町2−7−6 大物主神社 7/20、21 子供地車2台 平成12年制作
二台同時に作る。平成12年(2000)制作。「梶内だんじり店」の作。
 以前は8地区の太鼓が出た。
 ■小田地区(旧・川辺郡小田村)
   ⇒久々知(くくち)、下坂部(しもさかべ)、潮江、次屋、浜、西川、善法寺、額田、高田、神崎、西長洲、金楽寺、東長洲、中長洲、常光寺、杭瀬、今福、梶ヶ島
久々知1−3−28 須佐男神社 10/連休 布団太鼓3台 近松、久々知、久々知南
下坂部4−13−26 伊居太神社 10/連休(元・9) 布団太鼓3台
潮江2−38−5 素盞鳴神社 10/3日曜(元・17) 布団太鼓7台
次屋1−1−6 伊邪那岐神社 10/体育の日(元・17) 子供神輿 浜と両村立会
布団太鼓3台
西川2−13−20 西川八幡神社 10/体育の日 梵天太鼓1台
善法寺町14−15 白井神社 10/4日曜(元・28) 子供太鼓 以前は梵天太鼓で昭和40年頃まであった? 
額田町19−7 白井神社 10/体育の日(元・17) 布団太鼓1台 昭和52年、太鼓正の作?
高田町20−38 素盞鳴命神社 10/体育の日 梵天太鼓1台
神崎町11−23 須佐男神社 10/体育の日 子供太鼓
西長洲町2−15−8 西長洲八幡神社 10/17 例祭
金楽寺町2−17−1 金楽寺吉備彦神社 10/連休土日(元・17) 梵天太鼓1台 小田太鼓会
小田太鼓会=平成26年(2014)8月31日、太鼓台新調奉納神事。辻井工務店の作。先代の老朽化のため新調。
長洲中通3−8−28 長洲貴布禰神社 10/連休土日(元・17) 梵天太鼓1台 旧・東長洲村の鎮守
長洲中通2−4−48 大門厳島神社 10/連休土日(元・17) 梵天太鼓1台
長洲本通3−5−1 長洲天満神社 10/連休土日(元・17) 梵天太鼓1台 旧・中長洲村の鎮守
 【小田太鼓祭】
10月第2日曜日正午から、小田地区の長洲天満宮、長洲貴布禰神社、大門厳島神社、金楽寺吉備彦神社の4神社の太鼓が小田高校前に集まり、太鼓演技が行われる。
常光寺1−18−10 皇大神社公式HPへ 10/連休土日 布団太鼓1台 昭和60年制作
杭瀬本町1−9−36 杭瀬熊野神社公式HPへ 7/12 神楽
10/連休土日 神輿
子供太鼓2台 東高田、栄
神輿=平成4年、40年ぶりに復活。これは同年に新社殿を竣工したので復活させようという気運が盛り上がったためで熊野神社御神輿保存会も結成された。
子供太鼓=昭和27〜30年代が最盛期で5台出た。
今福2−11−31 今福八幡神社 10/連休 小型地車1台
制作時期は不詳。新しくとも昭和32年代。
梶ヶ島15−1 梶ヶ島住吉神社 10/10 例祭
 ■立花地区(旧・川辺郡立花村)
   ⇒塚口、東富松、上之島、栗山、大西、三反田、尾浜、七松、水堂、西難波、東難波
塚口本町2−11−28 塚口神社 10/18頃の土日 地車5台 北、清水、南、宮之町
布団太鼓2台 東町、宮之町
町内地車 長溝
北町⇒地車小屋は境内。
大阪型で二枚幕式。明治14年(1881)9月26日制作。大工は大坂東本町の辻本庄兵衛。彫師は長谷川亀蔵。土呂幕は格子。
平成21年(2009)10月4日、修復入魂式。大工は地元の光久工務店。
長さ4.9m。
幅2.65m。高さ4.22m。
 見送り幕は平成19年復元新調。京都・日本刺繍工業の作。「牡丹に唐獅子」。
以前の幕は嘉永7年の作。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「獅噛み」。
拝懸魚:「鳳凰」。隣懸魚:「飛龍」。
車板:「宝珠を掴む青龍」。
枡合:右は「漢の高祖龍退治」、左は「日本武尊の龍退治」。
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「兎を掴む鷲」。隣懸魚:「麒麟」。
車板:「牡丹に唐獅子」。
枡合:左右とも「龍退治」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
縁葛:「十二支」。
土呂幕:「菱格子」。
脇障子:「龍退治」。
清水町=2代目。北河内型。江戸末期制作。大正期に伊丹市清水町より購入。大工は地車小屋の保存されている取り外された梁に「讃良郡 南野村(現・四条畷市南野) 大工●●」と墨書きが残っている。彫師は服部清七。
平成11年、(有)光久工務店(光久正信)により改修。高さ4、2m。
見送り幕は平成6年新調。

 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「唐獅子」。
拝懸魚:前は「鳳凰」、後ろは「鷲」。
隣懸魚は4面とも「松にカササギ」。
車板:「梅福仙人」。
枡合:前は「青龍と唐獅子」、左右は「牡丹に唐獅子」。
 ≪小屋根廻り≫
拝懸魚:「兎を掴む鷲」。隣懸魚:「麒麟」。
車板:「竹に虎」。
枡合:正面は「雲に麒麟」、左右は「波濤に飛龍」。
 ≪腰廻り、見送り廻り≫
勾欄:「奈良の四季」。
脇障子:右は「張飛翼徳」、左は「関羽雲長」。

 
初代は松で作られた小さな地車で、現・地車購入後も一緒に曳いていた。昭和10年頃には現在の三菱電機伊丹工場奥の明神山に行く途中で横転したこともあるという。
やがて戦時中のことだと思われるが、ひっそりと幕を閉じた。

南町⇒地車小屋は境内。
=大阪型。天保年間制作?。大工不詳。彫師は相野一門か?。
平成18年6月9日、修復入魂式。吉為工務店により改修。
土呂幕:格子。
見送り:正面が「劉備玄徳、壇渓を渡る」。左は「桃園の関羽雲長」、右は「長坂橋の張飛翼徳」。
宮ノ町=板勾欄出人形式堺型。天保6年(1835)制作。平成20年9月15日、購入入魂式。
堺市陶器北は墨江村より購入と伝えられる。墨江村とは(住吉区浜口?)と思われる。
浜口のことは大佐の「地車請取帳」には明治33年10月に15円で修復。浜口では大きな地車があったとは伝えられるが売却先は不明。
 元々は板勾欄出人形式だったが、昭和58年、植山工務店の修復時に板勾欄出人形は取り外された。その後、平成7年に天野工務店でも修復。なお見送り三枚板、土呂幕は当時のまま。獅噛みは三代目で松並義孝の作。
この北村地車は平成19年(2007)11月3日、昇魂式。20年(2008)3月23日、搬出され、塚口宮ノ町へ来た。
見送り:正面は「加藤清正」、右は「後藤又兵衛の虎退治」、左は「韓軍大将金如吻」。

 
 初代は布団太鼓。大正14年に淡路より1500円で購入。昭和3年より使用で宮入りは、翌4年より。大水害で水をつかり幕が使えなくなり、地車購入。
 先代は堺型。昭和37年に東大阪市瓢箪山方面より購入。大工は住吉・大源。見送り出人形の裏側に「大源」の墨書きが残っている。彫師は彫又。
昇魂式は平成20年(2008)8/31。
和歌山県橋本市学文路の地車保存会の会長が購入。
東町=子供地車。平成16年(2004)8/29搬入。9/19新調入魂式。
ニ代目。あまの地車製作所の作。彫師は木下彫刻工芸。

 先代は昭和10年代前半に地元の大工の八木常三郎の作。従来の布団太鼓では子供が参加出来ないとして作られた。平成16年8/8昇魂式。吹田市片山神社へ。
東町=明治初期の作?。東町に来た時期は不詳。大工は不詳。彫師は前田安兵衛義次。平成15年にあまの地車制作所で彫物以外は新調という大修理。改修の彫物は木下彫刻工芸。入魂式は8/31。
この太鼓は大阪船場の染物屋が所有していた飾り太鼓を、その当時の青年団が町会に無理を言い、染物店と親切な上坂部村の相撲取りの世話で譲り受けた物と云われている。
 しかし識者の意見だが、塚口神社は祭神は「素盞鳴尊」。ところが四本柱に菊の御紋が付いているらしい。個人で菊の御紋が付けられる訳が無い。
そこでこの太鼓は上灘波神社(現・難波神社。大阪市中央区博労町4−1−3)の太鼓台だったという説もある。

 先代は屋台太鼓で水堂村に売却。
宮之町=大正末期に淡路島より購入。
【所曳き】氏地なれど、新興地なので祭礼に参加出来ない。
長溝=町内地車。平成15年制作。先代は手作り地車。
富松町2−23−1 富松神社 10/連休日曜 地車1台  
富松=昭和30年頃に西先場町(築地北浜5丁目)より8万円で購入。平成28年(2016)9月11日、改修入魂式。大下工務店による改修。
これは富松神社社殿御造営50周年、富松神社氏子青年会25周年という重要な節目に合したものである。
栗山町2−24−33 生島神社公式HPへ 10/14 布団太鼓1台 栗山
栗山=布団太鼓。昭和初期制作。自町のみ曳行。

上ノ嶋、大西、三反田=各地区は大正初期に廃絶
尾浜町1−4−27 尾浜八幡神社 10/12、13 子供太鼓1台   
七松町3−10−7 七松八幡神社 8/1日曜 子供神輿
16時より子供たちが子供神輿を担ぐ。掛声はTVアニメ忍玉乱太郎の登場キャラクター七松小平太の口癖「いけいけ、どんどん!」である。
水堂町1−25−7 須佐男神社 10/3日曜(元・16) 地車廃絶 昭和49年はまだ曳いていた
『尼崎の昭和』(2016年発行)には「昭和49年と昭和30年の祭礼の地車の写真がある。また神社に併設された水堂幼稚園の園児が子供神輿を引っ張ったが平成8年の閉園で無くなった」とある。
『全記録わが町いまむかし展―尼崎水堂立花ひとつの地域図誌』平成17年、水堂須佐男神社発行には53ページに平成16年祭礼の多くの子供だんじり、子供布団太鼓、子供神輿の写真が載っている。
48ページの昭和20年代〜40年代の秋まつりだんじり若衆には6枚の写真が載っている。
西難波町5−9−22 難波熊野神社 7/28 子供太鼓
東難波町3−6−15 難波八幡神社 10/15 子供太鼓
 ■大庄地区(旧・武庫郡大庄村)
   ⇒今北、東大島、西大島、浜田、東新田、西新田、道意新田、中浜新田、又兵衛新田
大庄北1−25−21 大嶋神社 10/12、13 太鼓1台 大島太鼓保存会
地車1台 大島太鼓保存会
氏地は東大島、西大島、今北、芋
※現・地名は大庄北1丁目〜5丁目、稲葉元町1丁目〜3丁目、稲葉荘1丁目〜4丁目、西立花町2丁目の一部、西立花町3丁目の一部、西立花町4丁目・5丁目の一部、大島1丁目〜3丁目、大庄中通1丁目、大庄川田町
例祭は10/12、13を維持しているが、今北は10/2日曜、子供地車は10/体育の日に巡行。
大島(大島太鼓保存会)=以前は東大島農会所有。平成23年4月、東大島農会より大島太鼓台一式を譲渡受け大島太鼓保存会所有となる。
明治26年、宝塚市上安倉より東大島が譲り受ける。太鼓幕の箱で確認出来る。平成14年に12年ぶりに復活。
 ≪彫物≫
鬼板:「牡丹に唐獅子」。
拝懸魚:「牡丹に唐獅子」。
隣懸魚:「牡丹」。
車板:「麒麟」。
枡合:妻側は「素盞鳴尊八岐大蛇退治、牛若丸 弁慶 五条大橋の出会い」、平側は「波頭に龍」。
勾欄合:「牡丹に唐獅子」。
木鼻:「獅子鼻」。
虹梁:「波濤」。
肘木:「菊花」。

東大島には11町会(1〜7丁目)あり、太鼓台復活前は太鼓が9町会より太鼓が出たが、今は4町会のみ。
地車=大島太鼓保存会。子供中として利用。平成19年(2007)2月18日搬入。19年は飾付けのみ。
平成20年(2008)10月5日、購入入魂式。その後も大島太鼓台保存会有志で修復し、(屋根の葺き替え、勾欄部の改修、頂載棒の取り換え、頂載棒受け金具、受け台新作)平成21年7月改修完了。
大正9年頃に東大阪市宝持が八尾市渋川より購入。制作年、大工、彫師 等は不詳。宝持は平成18年(2006)12月10日、昇魂式。
東大島第一町会(東大島第一社会福祉協会)=昭和初期制作か?。浜田町の大工、寺井伊之助の作。
平成6年、尼崎市の松原神社(浜田町)松原神社太鼓台保存会が地車購入につき、先代地車を譲り受ける。
平成12年までは曳行するも、1町だけでは維持出来ず、平成15年に駒替えして曳行が最後。
今北=子供太鼓。土日に曳行。往古は5、6台出たらしい。小屋は神社境内。

=今北の枝村。稲葉元町2丁目にあたる。昔は御神灯、辻堤燈は出していたが、現在地車小屋に保管。

西大島
=子供太鼓2台。1台は借り物らしい。

東今北=現・西立花町。代表者が参拝するのみ。以前は額提灯を飾った。
浜田1−6 松原神社 10/連休(元・13) 地車、梵天太鼓 松原神社太鼓保存会
地車=板勾欄出人形式住吉型。明治23年制作。彫師は彫又。平成2年購入。翌3年御披露目。
経路は住吉新調⇒堺市片蔵⇒〃堀上⇒〃津久野大東組⇒隠⇒東大阪市東鴻池⇒松原神社へ。

昼は「子供中」、夜は「若中」の提灯を吊っている。
平成28年(2016)2月21日、修復入魂式。
文化庁認定 地域活性化事業により、池内工務店が手掛ける。

 往古は梵天太鼓のみ。
初代は昭和2、3年頃制作。平成6年に東大島第一町会へ。
梵天太鼓=平成28年(2016)2月21日、復元新調入魂式。
文化庁認定 地域活性化事業により、吉為工務店が手掛ける。
 復元新調につき、搬入時に前の梵天太鼓の部材も返還される。
大庄西町1−41−25 西素盞鳴神社 10/12、13(毎年) 神輿
梵天太鼓 旧称=西新田
子供地車2台 北之町、大庄西連協
1949年の区画整理と83年の住居表示で西新田は消滅
北之町(大庄西三町会)=地車小屋は境内。
昭和30年代創建。寺井組制作の子供地車。

中之町(大庄西連協)⇒西5〜10町。
=地車小屋は境内。大阪型。昭和9年大工福井家の作⇒北出屋敷(昭和33年購入)⇒平成5年頃購入。平成21年9月6日、入魂式。寺井組が修復。初代。
長さ4m。幅1.2m。高さ4m。
琴浦町21 琴浦神社 10/13 梵天太鼓  
地車廃絶
1955、64年の区画整理で東新田の地名は消滅
『尼崎の昭和』(2016年発行)には「昭和26年頃の祭礼の地車の写真がある。また「だんじりが練り歩いていた、昭和40年代に競艇場が改装された頃より運行されなくなった」とある。
道意町5丁目17 道意神社 10/13頃の土日 地車 平成15年完全復活
道意神社青年会=平成15年10月11日、修復入魂式。約40年ぶりの復活で曳行される。この年は神社創立350年記念で、だんじり小屋内で寺井組が完全修復。
中在家より昭和30年頃に購入し、貴布禰神社氏地に北出西町(昭和30年頃3年ほど)、東桜木町(昭和41年から4年間)、そして昭和47年に某町に貸したところ、肩背折られ約40年ほど休止。平成13年復活し境内のみ曳いた。
休止中はだんじり風の神輿を作る。カラオケ大会、夜店を出す。
元浜町4−37 元浜八幡神社 10/13 子供地車1台 飾付け。神社は以前は又兵衛新田字樋先にあった 
昭和後期制作。現在飾付けのみ。昭和40年代前半までは道意(昭和42、3年頃)や築地より借りて曳いていた。
 ■武庫地区(旧・武庫郡武庫村)
   ⇒西昆陽(にしこや)、常松、時友、友行、常吉、西武庫、東武庫、武庫庄、西富松、生津(なまづ)、守部(もりべ)
西昆陽3−34−33 須佐男神社 10/16 宮座 15歳以下の男の子が「おとう」を務め、本殿で2b近くもある大幣を振り、世話人が三方に盛ったハナガラ(お洗米)を振りまいて地域の平安を祈願する。
常松2−13−1 春日神社 10/16 例祭
時友(武庫之荘8−21−28) 時友神社 10/16 太鼓 時友と友行の立会社
常吉1−22−9 須佐男神社 10/16頃の日曜 布団太鼓2台
西武庫(武庫元町2−9−2) 須佐男神社 10/16 例祭
東武庫(武庫元町1−12−13) 須佐男神社 10/16 例祭
武庫庄(武庫之荘4−32−23) 須佐男神社 10/16 太鼓 武庫庄太鼓保存会
西富松(武庫之荘東18−28) 西富松神社 10/16 例祭 1979年の住宅表示で西富松の地名は消滅
生津(武庫之荘西46−23) 磐長姫神社 10/16 例祭 1965〜77年の住宅表示で生津の地名は消滅
守部(南武庫之荘8−15−12) 素盞鳴神社 10/16 例祭 1972、75年の住宅表示で守部の地名は消滅
 ■園田地区(旧・川辺郡園田村)
    ⇒猪名寺、田能、椎堂(しどう)、南清水、上毛満(かみけま)、中食満、下毛満、瓦宮、穴太(あのう)、法界寺、富田(とうだ)、小中島、戸之内(とのうち)、御園(みその)、口田中、上坂部、森、若王寺(なこうじ)
田能5−7−1 春日神社 10/27 太鼓1台
獅子舞休止
西春日町=新興町で10/27に近い土日に田能より太鼓を借りる。お払いはしてもらうが宮入りは無い
獅子舞=天保期に観音堂の屋根葺替えの際に奉納始まるが、昭和24年で奉納途絶える。44年に再度復活するも続かず。
椎堂1−28−1 十九神社 10/16 屋根太鼓1台
南清水16−12 須佐男神社 10/3日曜 例祭
上食満(毛満3−15−2) 上毛満稲荷神社 10/3日曜(元・23) 屋根太鼓
獅子舞 毛満かぐらと称する
中食満(毛満5−14−21) 中毛満稲荷神社 10/3日曜(元・23) 太鼓
獅子舞休止
下食満(食満3−15−2) 下食満稲荷神社 10/3日曜(元・23) 太鼓
瓦宮1―1−12 皇産霊神社 10/3or4土日(元・28) 太鼓 瓦宮
子供だんじり 口田中
穴太(東園田町5−73) 白井神社 10/28 太鼓休止 旧称は穴太
渡御は太鼓が昭和30年頃まで行い、その後48年頃まで飾りつけしていたが、今は小屋に入れたまま。樽神輿も同様。獅子舞も廃絶。
戦前〜昭和25、6年までは「鯰の形」の山車を馬力で曳き渡御していた。これは穴太の白井神社に池があり、大なまずがいたためである。
平成10年代まで保存していたが、老朽化のため処分。
法界寺(東園田町4−53−1) 白井神社 10/28 太鼓休止 旧称は法界寺。
両・白井神社で合同祭礼を行い、穴太⇔法界寺まで渡御を行ったが、現在神事のみ。
富田(東園田町1−359) 船詰神社 10/18 地車1台(幕式) 貴布祢神社氏子より購入。
地車=大正末期〜昭和5年までに高安道太郎氏の寄贈による。
元は貴布禰神社の氏子地から購入と云われているが、元々は神戸の地車と思われる。
彫師は刻は相野一門か?。
小中島1−16−5 素盞鳴神社 10/18 太鼓  
戸ノ内町2−6−4 素盞鳴神社 10/連休 子供神輿 新興町
10/13、14 子供神輿 旧村
だんじり=宮付け。枕太鼓のような物。昭和30年代半ばまで出していたが、現在は出ていない。平成16年現在、まだ保存している。
子供神輿=本当は樽神輿。新興町は体育の日の前の日曜に出す。旧村の7ヶ町は例祭日守っている。
7町会は殿ノ内、北之町、東之町、西之町、南之町、北東町、猪名川町。
御園2−14−1 素盞鳴神社 10/22 五段布団太鼓 子供樽神輿も出る。 
明治14年(1881)12/28、万多羅寺(まんだらじ)と岡院(ごいん)は合併して御園となる。これは江戸時代以来両村の田畑が錯綜して境界が定めがたいという特別の事情があったためである。なお素盞鳴神社は万多羅寺にある。
上坂部3−25−18 伊佐具神社 10/22頃の土日 神輿
地車1台 上坂部
町内地車 東塚口町1丁目
=上坂部の西にある枝村。専念寺がある。昭和45年(1970)の住居表示により南塚口町の一部となったほか、一部が東塚口町・塚口町・塚口本町となり、町会はあるものの、森という地名は消滅した。
塚口の祭りマニアは父親が森の太鼓を担ぎに行ったと言われているので、昭和30年代前半まで太鼓があったと思われる。
若王寺1−10−18 熊野大神社 10/連休 手作り子供地車 1号車、2号車
 【尼崎市民まつり】(公式HPへ
10月中旬(体育の日の前の日曜が多い)。会場:尼崎市役所周辺及び隣接の橘公園・野球場(東七松町1丁目23番1号)。主催は尼崎市民まつり協議会事務局。
昭和47年、市制56年記念に始まる。参加地車は貴布禰神社氏子の中在家、北出屋敷、東桜木、新三和(子供地車=北出屋敷より借用)。築地地区より小嶋、丸嶋の6台から始まった。
その後参加台数が増えるも、財政の事情か?平成20年を最後にイベントは続いているが、地車の登場は止まっていたが、平成28年(2016)は市制施行100周年につき貴布禰神社・築地地区・塚口地区より地車が登場した。

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